2004年 甚大な災害での好意

7月18日の未明に局地的な豪雨が襲い、地元は壊滅的な被害を受けた。今振り返ると、近年多発する局地的な線状降水帯による甚大な被害の始まりはこの福井豪雨だったのではないだろうか。この年から気候が大きく変動し、全国で局地的な豪雨による被害が連発したように思う。

日曜日の早朝5時頃。寝ていると、家中が轟音鳴り響く雨の音で目が覚めた。バケツの水を落とす程の雨の落ち方で、これまでに経験の無い音だった。直ぐに止むだろうと2階の窓から外を見ていたが降り止まない。工房の裏には川があるので、心配になり仕事に使うトラック車で工房まで確認に行った。裏の川は激流だったが、氾濫する事は無いと判断し、戻ろうとしたところ町が騒がしい。

もうひとつの大きな川の上流が氾濫しそうだった。その現場に行くと既に川から水が溢れ始めていた。車が前に進まず、流されているのが分かる。流される!直ぐに4WDに切り替え、その場を脱出する事が出来たが、危なかった。下流にある家までは車が流されるように戻った。家に入り「川が氾濫する!水が来るぞ!直ぐに2階に行け!」と家族、子供達を2階に上げ、2階の窓から町の主線である道路を見ていると、近所の薬局の商品がバラバラと流れ始めた。

それから数分後には車が何台も流れ始めた。道が激流に変わり、上流の護岸が決壊したのだと直ぐに理解した。1階の畳やテレビ、テーブル等の物を必死に2階に上げた。それから1時間程で雨は止み、水が引いた頃には晴れ間が見えた。無情にも広がる青空。近所の確認に歩くと、多くの古民家が崩壊し、流され、町の人は茫然と立ちすくみ、声も掛けられない。町に爆弾を落とされ、敗戦の中に居るかのようだった。雨が降り出して2、3時間程の一瞬の出来事。その一瞬で町は壊滅的に破壊され、多くの物を失った。

甚大な災害での好意

自身の家は近所の家より30cm程地面が高かっただけで、床下を水が流れた程度の被害だったが、外に止めてあった車2台は水に浸り、全損廃車となった。1階の物を2階に上げるよりも車を移動するべきだったと後悔した。金額的には車の損害の方が大きかったし、後の移動手段も断たれた。この教訓があり、大雨警報が出た時には、まずは車を安全な場所に移動する事としている。

線状降水帯という初めての現象を体感し、後に国が初めて定める「甚大災害指定」を受け、地元には自衛隊が入り、復旧作業が始まった。ハコアの工房は浸水せず、機械も無事で大きな被害を受けなかったが、周りは甚大な被害だった。
平気な顔をして、自分の仕事などしていられない。その日からお盆までの1か月は仕事を止め、毎日のように自衛隊の復旧作業に参加した。

自社で保有する木材を運ぶリフト車で、立木を取り除き、除雪をするバケツを付け、泥を掻き揚げて運ぶ毎日。リフト車の座席の下にはエンジンがあり、夏の猛暑の中では体感50度くらいに感じた。脱水状態になったかのようにクラクラするが、家を失い、仕事が出来ない被害を受けた人を想えば、弱音を吐く事は出来ないと続けた。一日中、リフト車の運転とスコップ片手に泥と戦い、1か月後のお盆を迎える頃には、肌は小学生の夏休み以来の真っ黒焼けになった。

そんな状況の中、職人の仲間達の中には、道具も流され、買い直してまで今の仕事を続けるつもりは無い。仕事場を直すのに大金がいる。大金を掛けてまで職人を続けられないと、仕事を辞めた先輩や仲間の職人が多かった。地元産業の景気も衰退して来た頃だった事もあり、この水害が地元工芸産業に追い打ちを掛け、更に衰退を大きくした。仲間が職人の仕事を諦め、技術を捨て、辞めて行く事が本当に悲しかった。


当時の状況は、テレビで連日、全国に大きく報道されました。その報道を観た東京の知り合いや取引先から、お見舞い金を入れた封筒が何通も届きました。その頃はSNSは無い時代ですので、テレビで大きく報道される事で、イチハシも相当な被害を受けているんじゃないかと心配して貰える人が東京に多い事を知りました。

周りの人と比べれば、大した被害も無く、仕事も生活も出来る事から、数十万円にもなったお見舞金を受け取る訳にはいかないなと思いました。「被害の大きい方に寄付させて貰ってもいいですか」。と、皆さんに事情を説明し、了承して戴いた事から全額を寄付させて戴きました。

この時は戴いたお見舞い金を寄付させて戴き、多くの方の好意に深く感謝する事と寄付する想いを知りました。この事を切っ掛けに、寄付の出来る会社、仕組みを目指してきました。この時からハコアでは、後の甚大な被害に対し、何度も寄付を行っています。地球環境を守り、持続可能な社会を目指す事を支援する寄付活動を続けている事は、社員の意識を変え、会社が成長する為のエネルギーになっています。

豪雨からの復活

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