2011年 開店から数か月で営業停止

待望の第一号店がオープンし、多くのお客様がお店を利用して戴け、順調に3か月が経った3月11日。大きな揺れと共に信じられない事態となった。

マグニチュード9.0の東日本大震災。昼下がりの14時50分頃、福井本社で机に向かい仕事をしていたその時に電柱が揺れる程の地震が来た。即座にはどこが震源地か分からなかったが、夕方になるとテレビの画面に映画でも観ているのかと思う程の悲惨な光景が映し出された。信じられない程に津波で多くの町が破壊され、太平洋沿岸のコンビナートが炎を上げ燃えている空からの映像は、どこの世界の映像なのだろうと俄かには信じられず、ただ青ざめた。

開店から数か月で営業停止

福井がこれだけ揺れたのだから、東京はもっと揺れたはず。お店は大丈夫かと電話をしたが繋がらなかった。スタッフの安否も分からない。ただ、ただ、立ちすくむしかなかった。

地震の翌日は、高校生の娘が留学する為に成田空港まで送って行く予定だった。翌々日には通販番組に出演する予定もあり、娘と共に東京に向かう予定だったが、東海道新幹線が動いておらず、東京に行けない。近隣の空港から成田空港までの便も全て欠航。

お店も心配であるし、とにかく東京に向かおうと、車に乗り、娘と共に夜の高速道路で向かった。高速道路の片側一車線は災害支援車両の専用車線になっており、渋滞が続いた。通常であれば東京まで7時間程だが、13時間を要し、朝が来た。

首都高速に入ると私の車の後ろで通行止めになった。首都高速から下を見ると沢山の人が列を作り歩いていたのは、帰宅難民の列だった。

都内に入ると古いビルが崩壊しているところもあり、街はパニックの中にあった。成田空港までの電車も動いておらず、高速道路も全て閉鎖の中、電車の再開を待っていた頃、総武線が動き出した事を知り、乗り込んだが、徐行運転が続き、寿司詰め状態の中で娘を守り2時間以上を掛けて空港に到着したのは夕方。

娘が乗る飛行機の搭乗にはギリギリ間に合った。空港は天井が落ち、スプリンクラーが破断し水浸しの箇所もあり、飛ばない飛行機を待つ人が通路に寝転ばり、戦争でもあったかのような悲惨な状態であった。

空港からお店に行き、お店の無事とスタッフの安否が確認できた。大きな揺れではあったが、棚から商品が何個か落ちた程度だったらしい。

鉄道高架下は耐震工事が優れているが、特に東京駅から5kmの範囲は国の威厳を掛けた工事が施されており、震度10でも耐えられるそうだ。

その為、お店が無くなる事は無かったが、電力制限があり、お店は営業出来ない。更に未曾有の事態でもある事から営業自粛あって、休業は2週間以上続いた。

開店から数か月で営業停止


未曽有の事態に戦慄が走り、日本国内が悲しみに包まれました。私も会社もリーマンショックという危機の後遺症を抱えながら、僅かな光と希望が手元に近づいたところですり抜けてしまい、絶望感しかなかった事を思い出します。

外的要因に左右されないビジネスを構築するのだと小売りに転換しましたが、この災害でも外的要因に大きく影響を受ける事になりました。誰も予想できない悲しい出来事は突然来て、心情を大きく変えてしまう。自分達だけでは何も出来ず、変えられず、無力と嘆いてしまいがちですが、多くの守るものを抱えている限りは、諦められない思いがあった事はひとつの支えになりました。

守るべきものを守る為にも解決に繋がる突破口を見付けなければ、生き残れない事を知り、強さを身に付けました。

関連記事

TOP