1999年 時代錯誤している

どの産地でも「時代錯誤」の考え方が蔓延しているように思う。

産地の歴史が深い程、“昔からこうしてきたのだから間違いない。だから、こうしなくてはいけない”という考えが根強いと感じる。自分の師匠である義父もそうであった。師匠は業界でも一番腕の良い職人として有名であったし、私も誇りに思っていた。

「腕があれば飯は食えるんだ」という師匠は、東京へ営業に行く自分に「仕事をせえ」と何度か怒鳴った。けれども腕が良くても仕事が無かったら、腕の見せ所は無い。何度もぶつかり、後ろめたさを感じながら東京に行くこともあったが、行くこと自体は諦めなかった。

「これは京都の料亭に行く品や、ええもんやで」という師匠の言葉には喜びがあった。昔から京の都の神社や料亭で品が使われることは、作った職人にとっては勲章的な喜びであるのは理解出来た。しかし私達木地屋は完成品を納める訳では無い。素晴らしい木地だと喜んでくれるのは、産地の下地屋さんくらいだろう。完成品では無い品を納めたところで誰が喜んでくれるのか、何が良いものなのかが分からなくなった。それよりも欲しいと思ってくれる人が沢山いて、購入した後も良い品と喜んでもらえて初めて本当の良い品なんじゃないかと思うようになった。

その時は、まだ若く反抗期でもあったのだろうけれど、昔の物について昔の人が口にする価値観にいちいち疑問を持った。そんな古い価値観を言う職人や問屋さん、経営者は今でも多い。これまでこうしてやってきたのだから間違いない、という思い込み。その根底には変えることへの億劫感や変わることへの恐怖感があるのだろうと私は思う。

これは産地内だけの問題では無く、企業内でもある問題。長く成果を出してきた事によるプライドや意地で、価値を客観的に見られなくなった老舗によくあることで、事態が一転した時に成果が何かが測れなくなる。そんな時代では無いのに、変わらない、変えない事を至上の美学としていると時代に取り残されていく。

私が木地の技術を活かし、現代の生活スタイルに合った雑貨商品を作り出した頃、産地では「あいつは変わっている、漆を塗らない商品なんか売れる訳が無い」と、まるで鎖国の時代に南蛮渡来品を見るかのように珍しがられ、批判も受け、呆れて見られていた。そんな声だけでなく、1500年の歴史を誇る越前漆器の産地で仕事をしていると、何とも表現し難い、伝統という見えないプレッシャーが重くのしかかってくるのも事実。

いつも自分自身に対して疑心暗鬼だった。しかし、変えようとする思いの強さこそが何かを変えることになる。当時は根拠は無かったが、変える、変わることへの自分なりの哲学を持つ事が前を向き進む為に必要だった。

歴史や産地としての誇りから来る、押し潰されそうな重圧はどこにもあるものだと思う。時代錯誤に陥っていることを自覚したり疑問にも思わなければ、そこで時は止まってしまう。井の中の蛙でいたままでは何も見えてこないと自分で自分に言い聞かせ、様々な知見を手にする為に伝統という場を離れてみたことで、新しい伝統の有り方と継承の仕方を見つけることが出来た。

今でも産地の伝統という重圧は変わることなく感じている。これはこの歴史ある産地で仕事をしている限りは拭い去れない感覚だが、一方では前に進む為にも成長する為にも良い緊張感だと考えている。

関連記事

TOP