2005年 若者が集う
木ーボードやカスタムジャケットが話題を呼び「自分も木ーボードのような商品を作りたい」と東京から一人の若者が私のもとへ突然来たのは、大雪のお正月2日目に仕事をしていた時のこと。
それは、工房の1階が埋まる程に雪が積もる中だった。当時は、漆器の木地の仕事も薄く、夫婦で食べるのが精いっぱいだったので、人を雇い入れる勇気は無かった。しかし、若者の情熱に負け、春からの受け入れを約束した。運よくCNCを導入した後で、なんとか仕事を与えることは出来、初めて自分が仕事を教える事となった。
若者は美大の建築学科を卒業していたこともあって手際が良く、仕事の仕方を逸早く覚えた。CNCを教えると1週間程で使いこなし、自分でデザインした商品を作り始めていた。今どきの若者は早く覚えるなあと感心した。それからは、自分が伝統技術を継承していた時のように、日々の繰り返しの中で体感を得て仕事を覚えるのでは無く、機械を使いこなす自由な環境を与えることにした。
修行のような辛さを感じる事も無く、ただ楽しく仕事をする為の環境の中で、彼は商品のデザインや展開、カタログ製作やHacoaのブランディングも進めて行った。私が彼を天才だと思ったという事もあって当時のHacoaの商品展開を彼に全て任せた。その事で、自分は東京で営業を担い、ブランドとしての販促も進めていくことが出来た。
商品が増え話題になり始めると、また一人、また一人と全国の各地から若者が嘆願してくるようになり、社員が増えてしまった。何とか給料を出さなければと、通販やセレクトショップを駆け巡り、営業に知恵を絞った。独りでは無くなり背負う事も多くなったが、その分、夢も拡がり始めた。売上をつくる為にもブランドの周知をする為にも東京の南青山でイベントをしようと考えた時に、骨董通りから路地に入った場所に南青山291という福井の施設があり、入口のショーウィンドウを無料で借りる事が出来た。
1.5坪程の小さなスペースだったが、ネットでの実物を見たい、触りたい、使いたいとの期待に応え、2号機の木ーボードを商品化しお披露目会を開催する事にした。初代木ーボードは完全手作りであり、268,000円という高価な値付けだったが、2代目木ーボードはCNCを使い商品としての価値と精度を上げて、1台49,800円とした。
1枚の板から削り出して基板の木目が繋がっている50台の木ーボードをパネルに展示し、「So Many Keyboards , So Many Colors ~貴方の好きな木目を選んで貰い、好きな木ーボードを購入して下さい~」という企画展。木ーボードは自分しか作れなかったのだが、50台の木ーボードを独りで作るには1年以上も掛かってしまう。若者と共に作り、組み立てる事が出来るように設計した事で、2か月程度で作る事が出来た。
ショーウィンドウに設置するパネルは自分達で作り、東京に運び、組み立てる。そのパネルに50台の木ーボードを配置した企画展。当時の施設は福井県物産展のような展示で、とても若者が来るような場所では無かった。そこで、企画展のDMはがきを作り、青山周辺のカフェなどを周り、飛び込みでDMを置かせて貰った。会場ではモニターに繋いだ木ーボードを設置し、触って、使って貰えるように設置。
そのような仕掛けが反響を呼び、会期が始まると驚く程に多くの若者が来場してくれた。来る人、来る人が木ーボードを触り、使う為の長蛇の列も出来、展示した50台の木ーボードは会期前に完売となった。
使ってみたい、触ってみたいというお客さんの声に応える為の商品を作る。社員に仕事をつくり、給料を出す。ハコアで働きたいという若者やハコアの商品を売りたい、買いたいという人の声に応える。経営者としての様々な責任もこの木ーボードから生まれました。