2008年 夢を実現する支援者の力
前年に社長就任し、二代目が会社を衰退させるというジンクスを覆す為にも大きな重圧と向き合う事を覚悟し、会社を受け継いだ。社長として社員が働く環境を整え、ブランドとしてもお客様を迎える姿勢を作る為に本社の新社屋建設を決断。大きな資金が必要になるが、事業も上手く進み、売上も上がっている時期であったから出来ると腹をくくった。
これまで小さかった木工所が、いきなり本社などと言うのはおこがましい限りだったが、「ブランドを掲げるならば、形(なり)は良くしないと」と云われた事もあり、建てれば何かを変えれると強く思った。
スタッフ達も増え、小さなスペースで肩を寄せ合い仕事をしないと行けない状況は全く良くない。とにかく、社員が夢を持って、未来を見れる環境をつくるんだという強い想いがあった。
建設地は、工房から歩いて3分程度の近所の畑を数年前に師匠が購入し、木材を乾燥する倉庫を建てた。その土地を師匠に会社として貸して欲しいと頼み、建設地とした。
県外からのお客様を迎える為にも駐車場が必要だった。師匠から借り受けた土地は建物でいっぱいになり、見るからに狭い事が予想できた。隣の空き地を地元の名士が保有していた事から何とか貸して貰えないかとお願いに行った。「市橋君、頑張ってるからな。地元を盛り上げてくれ」と、その方にとっては、大事な土地であったが、気風の良い返答にてお借りする事が出来た。
建設地も決まり、地元で若く有能な設計士と共に夢を描いた。木で商品を作るブランドだから、木造建築で。柱は少なく、天井は高く、木の梁が見えるように。働く人の動線が見えるようにガラス張り。とにかく拘ったのは、外の光が燦燦と入る明るい工房。これまでは、光が当たると木が変色する事を嫌い、窓が少ない工房だった。
息苦しく、心理的に塞ぎ込むような事もあったので、開放的な現場を作り、木工所、伝統工芸のイメージを一新したかった。若き設計士は私の要望を確実に呑み込み、意匠を仕上げて行った。資金は少ないので、出来るだけ既製品を利用し、コストを抑えながら見た目の良い建設物を心掛ける、施主想いの若者だった事は助かった。
設計は出来た。何処の建設会社に依頼しようかと考え、大手ハウスメーカーに見積もりをして貰ったが、予算の倍ほどかかると言う。無理だと落胆している時に知り合いから紹介された建設会社の社長さんが相談に乗ってくれた。
「面白い。儲かりはしないが、うちが引き受ける。」と、これもまた気風の良い返事にて引き受けて貰える事になった。
建設会社が決まり、資金確保に動いた。銀行に行き、神妙に相談した。当時は漆器の仕事での売り上げは激減していたが、東京でのホテル関係の仕事に加え、パソコン周辺の木製雑貨の事業が好調で、先行く収益性と返済の見込みがあった事が幸いし、融資をして貰える事になった。
金利を下げる為にも県の認定を受ける事も進められ、経営革新の申請を行い、認定を受けた。地元銀行の支援力と支店長の寛大さもあり、低金利での融資を受ける事が出来た。
会社姿勢を改める為、夢の実現に向け新社屋を建てる。気風の良い、頼もしくも心ある協力者が多くいる。障壁は無くなり、事が進み始めた。
大きな投資を行う際には、銀行の支援が必要になる事は多いものです。私が駆け出しの頃に地元支店長が、「先行く金が無いと大きな仕事も取れないだろう。自由に引き出し、自由に使いなさい。」と、当座貸越枠を作ってくれました。それは、会社としての信用もあっての事だが、自身の頑張りが評価され信用された事でもあります。
その支店長の気配りにて大きな仕事を受け続ける事が出来て、利益も生まれて来ました。新社屋建設の大きな融資を受ける際には、県の認定を受ける事で金利負担が下がる事を教えてくれたのも銀行です。この申請で初めて事業計画書の書き方を学び、書き上げました。
数年後、当時の計画書を見直した際、その通りに進んでいた事に驚きました。それからは、毎年のように5か年の事業計画書を更新し続けています。それは、経営者として「軍配を振る」ならば、絶対に必要な事。茨の道である時には、その計画が自信になり、先を視て図る事で希望と勇気にも繋がり、懸念を持たずに足早に進んで行けます。
会社を成長させる仕組みと事業計画書の書き方のコツについては、ハコア塾で詳しくお伝えしたいと思います。