2009年 日本の常識は非常識
長引く不況の中で、海外市場はどうなっているのだろうと思い、海外に行った。事業を立て直す為にも海外を視るべきだと、この年から毎年のように海外に行くようなった。
初めての海外渡航は、27歳の時に漆器組合の視察でミラノとパリに行った。その時は、日本とは違った建造物に圧倒され、見るもの初めてのものばかりの中、海外の雰囲気に呑まれただけで、得るものは無かった。
次に行ったのは、2000年のドイツ・フランクフルトメッセ。地元の有志者達とメッセで越前漆器を持っての出展。ドイツの温かな老夫婦の民家に一週間程のホームステイをしたのは良い思い出となったくらいの渡独だった。
2002年には、ある企業から深圳のメーカーがデザイナーを探している。君ならものづくりも出来るしデザインも出来るので、3,000万円でこちらに来て住んでくれないかという依頼で現地に行った。
深圳は今でこそ世界的な都市であるが、当時は野っぱらが続く荒野だった。衛生的にも良いと云えない場所だが、高額収入でもあったし、メーカーを立ち上げる仕事に魅力を感じ、悩んだ。
しかし、1年間とはいえ、自分が会社を離れ、戻った時の事が心配だった。1年後に戻って、浦島太郎になり、日本で仕事が出来なくなるのではないかと不安もあり、断った。今は大都市の深圳に行く度に、あの時に行っておけば、もっと大きな仕事をしていたのかもしれないと少しばかりの後悔もある。
何度かの海外渡航の中で、私が衝撃を受け、その経験が活かされているのは、1995年の上海だ。33歳の頃に、自身が進むべき道が伝統工芸の職人のままで良いのかと、悩んでいた時。
当時は、国内企業が賃金の安い中国に工場を建て、生産拠点とする最中だった。その中で、地元企業も中国に生産拠点を置き始めていた事もあり、その現場を見たいと地元社長さんにお願いしたところ、上海に2週間も部屋を用意して戴け、暮らした事がある。当時の上海は、外資が入り始めたばかりで、まだ高度成長の始まりの中にあった。伝統的な石造りの民家が建ち並ぶ街に何棟かの高層マンションがぽつりぽつりと建っている時代。
日本の明治時代に来たような風景や慣習に、タイムスリップしたかのようで衝撃でしかなかった。
上海に着くと、企業さんが手配してくれた案内人が空港で待っていてくれた。流暢な日本語を話す若者だった。車で上海市内に着き、最初に教えられたのが道の渡り方だった。所々に信号機が付き始め、ただ広い道には自転車に乗る人が溢れ、青になると何百台もの自転車がぶわっと雪崩れるように走り出し、埃が舞うような時代。
車は走ってはいたが数は少なく、運転する人は全員初心者だから気を付けろと言われた。
左右を何度も見て、自転車と車の動向を確認して、息を合わすように走って渡る。10往復以上、1時間に渡り、練習をさせられた。それ程に危険な街だった。
滞在期間中は私が希望する色々な現場を案内して貰えた。現場では常に様々な問題が置き、常に言い争いがある。自己主張が強く、想いが通らないのであれば、仕事をしない。日本人のように聞き分けが良く、思うように上手く事は進まない。現場での窃盗、盗難は日常茶飯時のようにある。盗んだ者が悪い訳じゃなく、管理する者が管理出来ていないから悪い。日本の常識では考えられない事は多い。それが中国だった。
2週間の間には、アシスタントと一緒に全土を渡り歩き、北は大連から南は福建省まで、様々なものづくりの現場を幅広く見て来た。時には車で20時間の移動もあった。高速道路と云うが、段差も多くスピードは出せない。車は跳ねる。高速道路に自転車やリヤカーが入り込んで走っている。あぜ道のような悪路では、対向車が突っ込んできて、正面衝突を回避する事も何度かあった。
上海から福建省までは飛行機で移動しようかと空港に行ったが、待てど待てど、飛ばない。7時間待っても飛ばない理由は、席が満席じゃないからだという。当時の中国は発展途上の中で、信じられない事が多かった時代で、僅かながらもこの時に得た経験は貴重だった。
世界中では日本の常識は非常識と言われるが、こういう事かと身に染みて感じた。海外を知る人は少々のトラブルに動じない。忍耐強く、懐も大きい理由が分かった。その状況を受け入れ、割り切るしかないのだと。
上海から帰国し、空港から高速を運転していると、高速道路を安全な速度で綺麗に並び車を走らせている風景に日本の美しき姿を感じた。しかし、日本の生真面目さの中にどこか物足りなさもあった。
初めての中国で、上手くいかない事を上手く行くようにする努力を知りました。私をエスコートしてくれた中国の若者は、街の歩き方から住まいでの飲み物の準備に食事の案内、車や電車の手配に国内線の航空券のチケットの手配等、様々な要望に応えてくれるだけでなく、私の想いや要望の中で、予測を立て、先に準備する従順な人でした。
この人にとって何が一番良い事なのかを常に考え、評価して貰う事を心掛けているという。この人に逢い、私はチャイナビジネスと中国で身を立てようと努力するその人柄に惚れた。ビジネスにはこのような人材が居なくてはいけない。その時から私は常にそのような人を求め、そのような気の利いた人と仕事をしたいと願って来ました。
今、ハコアにそのような人材が多くいて、会社を成長させてくれている。当に“人財”といえる人が多くいる事は幸せです。よく様々な企業の社長さんから、ハコアさんのスタッフは朗らかで意識も高く、優秀で素晴らしいと褒められる事が多くあります。
どのように教育しているのかと問い合わせも多く、戴きます。会社がビジネスに必要とするマネージメント、人材教育はハコア塾でお伝えしていければと思います。