2012年 磨き上げた接客が生んだ大きな商機
東京・丸の内駅舎の改修工事が進む中、駅に入る東京ステーションホテルのサイン計画に2年もの間、携る事が出来た。日本を代表する玄関口の一流ホテルのサイン計画は、開業の2年前からスタートし、何度も打ち合わせが行われ、デザインの修正や試作を繰り返して来た。向こう四半世紀は利用されるであろう名誉ある事業でもあり、誇りある仕事に幸せを噛み締めていた。
丸の内駅舎は1914年(大正3年)に立てられた建物であり、通路は狭く、迷路のように入り組んだ構造は建立当時のレトロな情緒を漂わせていたが、内装工事が進んでいくと、サインの見通しが悪い、足りない、増やそう、と課題や対策が山積みだった。
連日のようにヘルメットを被り東京駅の中で作業に当っていた或る日、私の携帯電話が鳴った。それは、日頃いろいろと相談を受けていた大手デベロッパーの方からで、「東京駅に居るんでしょ。前のビルに来てくれないかな」と。
前のビルとは、旧中央郵便局の白い建物。訳あって、保存建物の区画と新しい区画が融合したビルが、建築家の隈健吾氏により、リノベーション中である事は知っていた。その工事現場に来てくれないかという電話だった。
なんだろうと思いながらも道を渡り、向かいのビルに行くと、まだ工事中のビルの中を隈なく案内して戴け、4Fの店舗区画に連れて行かれた。
大きな窓からは先程まで仕事していた東京駅舎がドーンと観える。異国文化を感じさせる情緒ある風景だ。「ここどう?」と聞かれた時には、この場所の内装をしてくれという話かと思い、「どこのお店?」と聞き返した。
「ハコアだよ」と伝えられ、驚いた。まさか、一等地の丸の内にお店を出すとは思っても居なかった事もあり、冗談かと疑った。話を聞くと、オーナー会社の役員さんがハコアで買い物をした。その時の接客が素晴らしく、違うお店にも行った。そこでも素晴らしい接客だった。
また違う日にお店に行き、違う人の接客を受けて、同じく素晴らしいと感動した。ものづくりの背景も商品もすばらしい。是非ハコアを誘致したいと、伝えられた。
販売スタッフ達の直向きな努力とお客様に対する姿勢を診て、それを評価して貰えている事がとても嬉しく、そして誇らしく感じた。
その話の後に契約の条件表を差し出されて、驚きで飛び上がった。やはり、国内一等地の相場はこんなに凄いんだと驚いた。とても即答出来る条件では無いので、検討しますので、お時間を下さい、とお伝えし一先ず持ち帰った。
2k540店を出店し、1年契約ではあったが、2号店をお台場に出したばかりの時。お店の売上は順調に上がり、少し余裕が出て来た頃だが、一等地に出店出来る程では無かった。惜しいが今の力では無理だと思ったが、諦められない自分もいた。
地元に戻り、メインバンクに駄目元で相談すると、「契約するべき、支援しますよ」と前向きの返答を貰えた。それでも慎重であったので、現地のリサーチや事業計画書を作り、採算を練った。そうして出店への根拠を持てた事で、銀行の支援を受け、一等地への出店を決めた。
当時の丸の内周辺は、駅舎改修工事をピークとした都市開発が進み、近代高層ビルの建設ラッシュにて新しく生まれ変わる時でした。何年も工事中の地帯で、人が集まるようになるまでにはもう少し時間がかかるようにも感じていました。
そんな状況でしたが、もともと丸の内周辺はトップブランドが軒を並べ、大手のメーカーやブランドが余力で旗艦店を構える場所。私達のような地方の小さな会社がお店を構える事は夢のような場所でしたが、KITTEという新しい商業施設が、デザインに優れた地方のものづくりメーカーを集め、ヒト、モノ、コトとの出会いを繋げるというコンセプトだったからこそ、お声を掛けて頂けたのだと思います。
高い雲のような地からお声が掛かった事は、何百もの階段を飛び越えたようにも思えました。丸の内駅舎が竣工する時に向け、観光的にも盛り上がりつつあり、出店へ向けてのタイミングとしてはベストと言っても良く、決断するには大きな好材料でもありました。
当時は、リーマンショック、東日本大震災の影響が尾を引いていて、不安を抱えていましたが、地元の銀行は背中を押してくれ、勇気を持って、前に進めました。大きな波が来た時に乗れるか乗れないか、乗る準備が出来ているかの判断を自身で計るのは難しいところでしたが、この大きな波に自信を持って飛び乗れたのも磨き上げた接客があり、それを武器に出来るとの自信があったからこそでした。